加賀二俣 松扉山 本泉寺

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山門

江戸時代後期・文政六年(1823年)に建てられました。真宗の寺院では少し珍しい、中央(大)と左右(小)の三つの門を併せ持つ三門の形態を持っています。二層造りで、上層が鐘楼になっています。石段下から眺める景観には独特の風情があります。

近くに寄って見ると、正面の羽目板には、左手に鯉の滝登り、右手には獅子の子落としの彫刻が施されてあります。また屋根の垂木や組マスが、下層が日本式(繁垂木)、上層が中国式(扇垂木)に作られていて、遊び心も豊かです。

右横に、「門建立取持釋尼妙善」と刻された石碑が建っています(現在は風化していて殆ど判読できません)。越中(現南砺市)・東岩瀬の粟田屋龍右衛門の妻である釋尼妙善の寄進によって建立されたことが分かります。

平成23年(2011年)に金沢市の援助により全面にわたって大きな修復をしました。

境内

手水舎(ちょうずしゃ)

三角形の屋根を持つ趣豊かな手洗いです。よく見ると三本の柱が少々内側に傾けて立てられています。明治初年に作られました。屋根の上に乗っている長細い石は屋根の中まで深く刺さっており、見た目のバランスと同時に建物そのものの重心を保つように配慮がなされています。

御塩梅(おしおうめ)

布教の旅から戻り、上人が捨てられた梅干の種から芽が出たと伝えられています。塩漬けの梅から実ったというので、御塩梅と呼ばれます。今も550年前と同じ、楕円形の小さな古代梅の実が成ります。

綽如上人庵室跡

本泉寺建立より50年以前のこと、井波の瑞泉寺を創建された綽如上人(蓮如上人の曽祖父)が、井波へ向かう途中に、しばし休憩された庵が在ったと伝えれらています。その名残の場所を選んで、後に如乗法印が本泉寺を開いたといわれています。

ケヤキの古木

本泉時の歴史を共に歩み眺めてきた、樹齢600年近いケヤキです。昭和57年(1982年)に幹が雪で折れてしまいました。本堂正面右に、その部分が残されています。残っていた幹も平成22年(2010年)に民家に倒れそうになり、やむなく伐採しました。現在はその切り株だけが残っています。

本堂

地元からの寄進によるケヤキ材によって、大正10年(1921年)に完成しました。総欅造りで、建物の内外に施された彫り物も豊かで、豪壮さと優雅さとを併せ持つ本堂です。建物の大きさは正面が七間、途中から十間という少し変わった造りです。外陣から内陣を望むとき、より広さを感じさせるよう工夫されています。

十数年前ころから屋根の傷みが深刻になり、平成24年(2012年)に大修復しました。

九山八海の庭

叔父・如乗法印が亡くなった後にも二俣を訪れた蓮如上人は、今は亡き叔父への感謝と思慕を込めて、石を立て、樹を植えられました。文明七年(1475年)に造られたこの庭は、石川県最古の庭として、県の文化財に指定されています。また、上人作成の庭としては、現存するものが少なく、貴重な上人の遺跡でもあります。

九山八海(くせんはっかい)の池

阿弥陀如来の浄土を目に見えるように模ったのが、須弥山の世界です。その須弥山世界が、石と水とでもって、九つの山と八つの海とで表現されています。庭全体の名前は、この池の名前から取られています。

お手植えのヒバ(実際にはサワラ)

枝がみんな西の方に向いて伸びています。蓮如上人が植えられた樹だから、枝がみんな御浄土を向いて伸びるということから、「西向きのヒバ」と呼ばれます。

御詠歌石

池ほとりのサワラの根元に置かれた平たい御詠歌石には、上人が二俣を去る際に、お別れの心を三首の歌に託し刻まれました。
「立て置きし 庭の石木も 変わるなよ また二俣の 春にあふべし」
「豊吉の 流れも清き 二俣の 光はなほも 澄める水かな」
「つくづくと 思ひくらして 入相の 鐘の響きに 弥陀ぞ恋しき」
※豊吉(とよよし)=村の中を流れる川の名
※入相(いりあい)の鐘=夕刻を告げる日没に撞く梵鐘
このサワラの古木も、本堂へ倒壊のおそれから、平成25年(2013年)6月に上部を伐採しました

御硯石と御背丈石

陰陽石として置かれた一対の石組みで、硯石(陰)は硯の墨池を模ってあり、背丈石(陽)は上人ご自身の背丈に合わせて置かれました。背丈石の前に立つと、誰もがすぐに背比べをするので、二俣の人たちは「背比べ石」と呼んでいます。蓮如上人はかなり大柄な人だったと伝えられています。

御腰掛け石

御硯石と御背丈石との中間に配置されている石で、蓮如上人がお庭のこの石に腰掛けて休まれたと伝えられています。

御杖竹

上人が刺し残してゆかれた杖から、根が生え芽が出て生い茂ったと伝えられている紫竹です。


蓮如上人御廟

蓮如上人の御遺骨が収められている御廟と参詣堂です。上人が亡くなると御遺骨が縁(ゆかり)の寺院に分けられました。本泉寺へも御遺骨が届けられ、すぐに御廟が建てられました。江戸時代後期に岩山を切り開いて現在の地へ改装され、手前に参詣堂が建てられました。貴重な青戸室石がふんだんに用いられています。

※この御廟への、御分骨を取り扱っています。