加賀二俣 松扉山 本泉寺

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寺号の由来

本泉寺は室町時代中期の嘉吉二年(かきつ2ねん  1442年)、今からおよそ570年前に、蓮如上人の叔父・如乗法印によって現在の地・二俣に開かれました。50年ほど前に綽如上人(しゃくにょしょうにん  本願寺第8世・蓮如の曽祖父)によって開かれた越中井波の瑞泉寺を手助けするお寺として建てられたようです。瑞泉寺(泉)の願いを本として建てられたという意味で、本泉寺の寺号が名乗られました。

山号の由来

ある時、裏山から吹いてきた松風が、立ち上がったばかりのお堂の扉をカタカタと叩いたということです。その清い音を聞いた村人たちが、お寺の立つ場所をいつしか「松扉(ショウヒ)の小谷」と呼ぶようになりました。「松風が扉を叩くような清々しい場所」という意味です。後にその名が山号となり、松扉山本泉寺と号するようになりました。

☆本泉寺が開かれた年代
室町時代の京都では、三代将軍足利義満は応永四年(1397年)に金閣を建立し、八代将軍足利義政は永徳元年(1489年)に銀閣を建立しました。本泉寺開創の嘉吉二年(1442年)は、ちょうどその中間の年代に位置します。

蓮如上人の北陸下向

本泉寺が開かれた嘉吉二年(1442年)という年は如乗法印31歳、蓮如上人28歳の時です。北陸地方への布教を願っておられた蓮如上人は、親しい叔父夫婦の住む二俣の地を拠点として加賀・越中を回る布教を開始されたのです。

蓮如上人は生涯に大きくは三度の北陸布教の旅をされ、その度ごとに二俣に立ち寄られました。第一回目は本泉寺が創建されて7年目の当たる宝徳元年(1449年)35歳の年です。この時は父親の存如上人(如乗の兄)も健在で、親子での忘れ難い旅となりました。二俣を訪ねて久々に叔父さんにお会いし、懐かしい積もる話もあったでしょうし、これからの北陸への布教の相談もされました。

第二回目はそれから19年後の応仁ニ年(1468年)54歳の年です。このときにはすでに本願寺の門徒がたくさん増えていたようです。

第三回目は3年後の文明三年(1471年)57歳の年です。このときは加賀・越前の境の吉崎に坊舎を開いた年に当たります。この年から文明7年に吉崎を退去するまでの4年間は、北陸に留まって精力的に布教されました。

蓮如上人と二俣

この間、蓮如上人は二俣でもたくさんの行実をのこしておられます。まず『御文』を三通、この二俣で制作されました。文明三年七月十五日作成の「一帖目第一通」。次に翌日の七月十六日作成の「帖外御文」。更にその2日後の七月十八日の日付を持つ「一帖目第二通」の『御文』が二俣の坊舎の一室で作成され、そこから発給されました。

文明七年(1475年)には本泉寺本堂裏に「九山八海(くせんはっかい)の庭」を作成されました。実悟上人著述『蓮如上人遺徳記』(上巻)には、

「文明第七ノ暦所々歴覧ノオリフシ、旧寺ノ事ナレバ再観大切ナリトテ、加州賀北ノカタホトリ二俣ノ松扉ニ立寄、シバラク足ヲ憩イ安慰ノタメニ石ヲ立テ樹ヲ植ヘ玉フ。ソノ庭ノ形今ニノコレリ、遺跡尤モ慕フヘキモノヲヤ。」

と記されています。

また二俣逗留の折に、村人の協力を得て、大川の架け替え工事を行っておられます。そのときに掘られた長い洞穴が、今もそのまま村のはずれに残っていて、その規模から推測するに、かなりの大工事だったことがうかがえます。

また如乗法印は、蓮如上人が本願寺の住職を継承する折に大きな力になれた人です。蓮如上人と如乗法印の尽力によって河北・加賀では本泉寺が、越中では瑞泉寺が布教の中心となって働くようになりました。

寛正元年(1460年)、如乗法印が49歳で亡くなると、16歳年下の妻は得度して勝如尼と名乗り、亡夫の意志をついで蓮如上人の活動を支え続けました。二俣の地を愛した蓮如上人は、その勝如尼に二男蓮乗(本泉寺第二世住職)・七男蓮悟(本泉寺第三世住職)・十男実悟(鶴来清沢願徳寺開創)の三人に次々と託して、北陸を浄土真宗の里にしようと願われたのです。

百姓の持ちたる国のように

蓮如上人の願い通り北陸一帯に念仏の声が満ちるようになりましたが、同時に大きな武力を持った武士たちも本願寺の門徒に加わるようになり、守護大名や戦国大名たちとの間に争いが生じるようになってしまいました。そのような状況下で長享元年(1487年)、45年間にわたって二俣にあった坊舎に留守番を起き、本泉寺の本拠を金沢の若松の上に開ける丘陵地に移転しました。歴史上、若松本泉寺と呼んでいます。若松移転の翌年には、加賀の守護であった冨樫政親との戦争(長享の一揆)が起こり、高尾城に勝利します。

十男の実悟上人が日記に記した有名な「百姓の持ちたる国のように成り行き候」という加賀の国が誕生します。本泉寺は百姓の持ちたる国の中心となって活躍するのですが、若松へ移転してから44年後の享禄四年(1531年)、今度は本願寺門徒の中での戦争(享禄の錯乱)が起こり、敗れた本泉寺は一夜にして焼け野原になってしまいました。

住職の蓮悟は逃れて最後は大坂で亡くなりました(明治以後は大阪と書きます)。大きな戦争が終結すると、蓮悟の亡くなった大坂の地に若松本泉寺が、そして最初に開かれた二俣の地に二俣本泉寺がそれぞれ復興して現在に至っています。